新たな伝説、誕生

kremsは大学のある小規模な町で、ドナウ川クルーズの寄港地。近場の見所としては、デュルンシュタインがトップだが、地図を見ていておもしろいものを発見した。川向こうの小高い丘の上に立つお城のような建物は、実は修道院らしい。しかもクレムス駅から電車で2駅、駅から500メートルほど丘を登ったところにある。車用の迂回道路とは別に、細いショートカットルートが地図に書かれている。おそらくこれは、高度200メートル差を楽しみながら歩くためのトレッキングルートであろう。よし、今日はここに出かけてみよう。修道院内もおそらく有料で中が見学できるようになっているだろうし、日帰りでプラプラ行くのにちょうどいい!


と、プランを立てていたら、仕事関係のスポンサーのバスツアーに便乗できることになった。行き先は、私が目をつけていた修道院(Stft Gottweig)で、ランチとワインセラーでの夕食がつく、という好条件。ただし、修道院セミナーを受講することになる。とはいえ、午後の部は私に直接関係ない内容だったので、集合時間の16時30分までの間、自由行動が許された。そこで、腹ごなしになるだろうと、トレッキングルートを下ってふもとの町を見学し、また山を登って戻ってくる、というプランを思いついた。それが後の悲劇につながるとは…。


トレッキングルートは、木々に囲まれた涼しい一本道。かなりの傾斜を約12分で降りてくる。ところが、森を抜けて町にでてはみたものの、な〜んにもない、田舎町。チェックしていた駅は、はたして無人駅。しかも電車の本数は一日に数えるほど。これではあまりに不便だ。ちかくに教会があったが鍵がかかっていて入れない。そして郵便局の前にはバス停が。そうか、電車では不便だけど、クレムスと修道院を結ぶバスルートがあるのかもしれない。こちらは1時間に1本ある。日差しも強くなってきたし、登りのルートは、バスで行こう。小さなカフェで時間をつぶし、バスにのって修道院に戻ったのは15時。ちょうど、ツアーのメンバーはコーヒーブレイク中。出発までは1時間半ある。修道院の中庭のベンチで座って、のんびりしよう。


念のため、集合時間よりも早い15時50分、セミナールームに戻った私を出迎えたのは、ガランと空っぽの空間。えええ? 誰もいない!
プロジェクターを片づけに来た女性に質問してみると「セミナーイズオーバー。ノーバディヒア」がががーん。
置いてきぼりですか! 団体行動を乱したバツですか!
私は、集合時間を間違えていたのだ。実は16時30分というのは、いったんホテルに戻って、着替えたのち、ディナーへ出発する時間という意味だった(とわかったのは後になってからだが)。コーヒーブレイクの直後にはみな、立つ鳥後を濁さずで、セミナールームから去っていたのである。

さて困った。
そういえば、かつて、タイのサムイ島で断食の宿に泊まっているとき、一人でシュノーケリングツアーに参加したら、島に置き去りにされたなあ。耐水の腕時計をしていなかったのが敗因で、集合時間がわからなくて、置いて行かれちゃったんだよなあ。あのときは、自力でボートタクシーとバイクタクシーを乗り継いで、ツアーの人たちがランチをしている店に必死で合流したんだった…(後に、ツアー会社の人は平謝りをしていたが。当たり前か。船の名前を覚えてなかったり、お金を持っていなかったら、どうなっていたのだろう。大問題であることは間違いない)。
いったん、そういう目に遭っているだけに、私は、イザとなると神経が太い。今回は、修道院からクレムスの駅までバスがあることを知っている。肩をおとしつつも、バス乗り場へ向かう。

するとここでも問題が!
修道院からクレムスまで行くバスは、4分前に出発したばかり。しかもそれが終バスなのだ!そう、ここはマイカーでドライブする人が一般的なので、公的手段は手薄だ。どどど、どうしよう。
まあ、こうなったら、いったん町に出よう。例の郵便局のバス乗り場まで行けば、まだクレムスに行くバスがあったはず。いやそれよりもひょっとして。郵便局から修道院までは、登りルートで20分かかっている。けっこう遠回りをしているのだ。てことは、急いでこの山道を降りればバスに追いつくかもしれない。
つい3時間前、鼻歌交じりに下ったトレッキングルートを、今度は必死の思いで駆け下りる。降りきったところには駅がある。駅から300m先が郵便局のバス停だ。さてどっちをとるべきか?
いやここはひとつ、バスに賭けてみよう。さらに走るぞ! と思っていると、目の前の路地から、クレムス行きのバスがやってきた。これっ。これだわ〜! おもわず、台湾の時のクセで、バスに向かって手を挙げて、乗車したい旨をアピール! どうにか、私はこのバスにのってホテルまで自力で帰り着くことができたのだった。
これにて、一見落着。といっても、ワインセラーテイスティングを逃したという痛手は、消えないのであるが。ま、命あってのものだねです、人生は。